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掲載日:2012年9月10日

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埋蔵文化財|杜家立成木簡について

市川橋遺跡出土『杜家立成(とかりっせい)』木簡

釈文 木簡裏表 市川橋遺跡周辺の古代の道路網(赤印が今年度の調査区)杜家文書

1 遺跡の位置と発掘調査の概要

遺跡の位置

市川橋遺跡は宮城県多賀城市市川に所在し、古代の陸奥国府多賀城跡の南に広がる古代の遺跡である。

調査の概要

調査は県道泉・塩釜線のバイパス的機能をはたす都市計画道路玉川・岩切線の建設に伴うもので、宮城県教育委員会が主体となり、宮城県教育庁文化財保護課が調査を担当した。調査区は多賀城南門の南西200mの地点で、発掘面積は約2000平米である。調査の成果:古墳時代後期から平安時代にわたる河川跡が発見された。河川跡は調査区内を北に弧をえがいて東から西に流れており、その堆積土中からは上記の時代の土器や木製品など多量の遺物が出土した。その成果をもとに11月7日には現地説明会も行っている。その後、調査の進展に伴い、河川跡の奈良時代の層位から上記の木簡が新たに出土した。この木簡は記載の内容からみて、極めて貴重な発見と思われる。そこで、単独ではあるが、本木簡について今回特に公表することとした。

2 木簡の形状と内容

形状

長さ36cm、幅3.6cm、厚さ5mmの短冊型をしている。樹種は西からの搬入材のヒノキである。

記載の内容

木簡に記載された文字は右下のように判読された。B面の文字は遺存状況がよいが、A面は「略」以下の遺存が悪い。特に2番目の「書」以下は墨が残らず、墨の付いていた部分が白くなっているのみで、その部分の文字の内容は検討中である。両面にみえる「杜家立成雑書要略」(とかりっせいざっしょようりゃく)は書名である。その下は、A面では書名下半の「雑書」を繰返し書いている。B面の書名の下の「一巻」(いっかん)は同書の巻数、「雪寒呼知故酒飲書」(雪の寒きに知故を呼びて酒飲せんとするの書)は同書の冒頭の文である。

筆跡

遺存のよいB面をみると、各文字の中心軸がそろっていない。また、全体に固い感じのする書である。したがって、上から一気に書き下ろしたものではなく、意識的に1文字ずつ書いたことがうかがわれる。

位置づけ

B面で書名を繰返すことや筆跡からみて、本木簡は習書木簡(文字の練習をした木簡)と考えられる。年代は出土した河川跡の層位から奈良時代のものである。なお、書き手の特定については断言できないが、一般に木簡は下級の役人が筆書するものなので、多賀城に関係する下級官人などの可能性が考えられる。

3 『杜家立成雑書要略』(とかりっせいざっしょようりゃく)について

内容と著者

『杜家立成雑書要略』は『杜家立成』とも略称し、唐(AC.618~907)の初め頃の7世紀前半に中国で作られた手紙の模範文例集である。中国の六朝・隋・唐代には各種の手紙の模範文例集が編纂されたが、本書は「知故」すなわち友人の間で取り交わされる手紙の模範文例集で、36件72通の往復書簡の文例を収めている。著者は都の杜氏の出身のもので、説が分かれているが、杜正倫(とせいりん)またはその兄の杜正蔵(とせいぞう)と推定されている。

現存する写本

中国ではすでに散失し、伝存していない。わが国の東大寺正倉院に正倉院宝物として伝わる一本が現存する唯一のものである。木簡などの出土遺物にも類例はない。正倉院宝物の『杜家立成』は光明皇太后が書写したもので、天平勝宝8歳(756)に皇太后が聖武天皇の冥福を祈って東大寺に献納したものの1つである。その書蹟は王羲之の書風を伝え、皇太后が王羲之風の手本をみて書写したものといわれている。なお、そのことは、当時における漢籍の書写が、漢文や書を学ぶという役割を持っていたことを示している。日本への伝来と影響:『続日本紀』所載の霊亀元年(715)の太政官奏は本書を利用して作文されているので、日本への伝来はそれ以前とみられる。また、『万葉集』巻5、巻17~20の漢詩文・和歌の用語には本書の用語によるものがみられる。巻5は大伴旅人と山上憶良の往復書簡、巻17~20は大伴家持の歌日記で、これらに本書の影響が認められる。以上から、本書は少なくとも奈良時代に光明皇太后、大伴家の旅人・家持父子、山上憶良が所持し、また太政官に備えられていたとみられる。なお、当時の一般人の書簡や和歌には本書の影響は確認されていない。したがって、本書の普及範囲は狭く、都の皇族や貴族などの上流階層、太政官などの中央官司の範囲にとどまっていたと推定されている。

4 本木簡出土の意義

『杜家立成』の内容を伝えるものは、今まで正倉院宝物の光明皇太后筆の写本が唯一のものであった。その意味で本木簡の出土は貴重な発見である。なお、本木簡と光明皇太后筆の写本を比較すると、書風は似ておらず、文字に異同もみられる。よって、本木簡の手本となった写本は、皇太后が書写した手本とは系統を別にするものであった可能性がある。『杜家立成』に関するこれまでの研究では、同書の普及は都の皇族や貴族などの上流階層、太政官などの中央官司の範囲にとどまると考えられていた。しかし、本木簡の出土によって『杜家立成』が奈良時代にすでに都を遠く離れた多賀城またはその周辺に所蔵されていたこと、また、そこに関係する下級官人などが漢文と書を学ぶために本書を利用し、彼らの間にも普及していたことが明らかになった。以上にとどまらず、本木簡の出土は奈良時代の日本における漢籍の受容と普及の問題、律令官人の学習と教育の問題、さらに大きくは中国文化の受容の問題を解明するうえで重要な意義を持つと考えられる。

5 まとめ

  1. 本木簡は『杜家立成雑書要略』の冒頭部の習書で、多賀城に関係する下級官人などが手本をみながら漢文と書を学ぶために書いたものと思われる。年代は奈良時代のものとみられる。
  2. 『杜家立成』の内容を伝えるものは今まで正倉院宝物の光明皇太后筆の写本が唯一のものであった。その意味で本木簡の出土は貴重な発見である。
  3. 本木簡の手本は、皇太后が書写した手本とは別系統のものである可能性がある。
  4. 『杜家立成』の普及はこれまで都の上流階層や中央官司の範囲にとどまると考えられていたが、本木簡の出土によって、奈良時代にすでに多賀城またはその周辺に所蔵され、下級官人などに利用されていたことが明らかになった。
  5. 本木簡の発見は、日本古代における中国文化・漢籍の伝来と普及の問題や、律令官人の学習と教育の問題を考えるうえで大きな意義がある。

お問い合わせ先

文化財課埋蔵文化財第一班

宮城県仙台市青葉区本町3丁目8番1号

電話番号:022-211-3684

ファックス番号:022-211-3693

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