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掲載日:2012年9月10日

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仙南の農道をゆく~広域営農団地農道「仙南線 新・羽前街道」~猿鼻宿

11.猿鼻宿

旧羽前街道保存地区を蔵王町方面に下り最初の交差点右側にある集落が猿鼻宿です。現在は「花町」(現住所は町尻)といわれている集落です。「猿鼻」という地名は、「猿」の音読みにサル、サリ、サラ、マシラ、マシという読み方があって、これらの音は「崖地・断崖」を意味することから「がけの端」=サルのハナとなり、猿鼻となったとしている説があります。
この説を採るとこの近くに大きな崖でもあったことになるのですがどうでしょうか?そして、この「猿鼻」が後世になって猿ではあまりにも変だということや猿が「去る」に通ずることから、猿の字は除かれ鼻も花に変化し「花町」になったのではないでしょうか?あくまで推測ですが、歴史の好きな人はもっと詳しく調査してみてはいかがでしょうか?ちなみに、近くでは白石市小原地区に、また近県では山形県鮭川村に同様な「猿鼻」という地名が残っています。

農道から猿鼻宿を写す
農道から猿鼻宿を写す(道は奥で左に直角に折れている)

羽前街道の宮宿から川崎宿までの距離が四里二十丁(約17km)と距離があり、旅人が追いはぎ等に苦しめられたことから永野と猿鼻に小さな宿場町を設けました(1602年高野家記録)。1670年の宿場の調査記録によると永野48戸、猿鼻20戸と小さな宿場町であり、殿様が宿泊する本陣といった機能は持っていなかったとされています。しかし、猿鼻の検断(通行を取り締まる役人)だった家の古文書には、幕末(1826年)に庄内藩、山形藩、高畑藩、弘前藩の大名の通行が記録されており、街道としての機能は十分にあったとことがうかがわれます。

農道沿いの石碑群の写真
農道沿いの石碑群

ここの町並みは旧・羽前街道上に通した仙南農道に対して直角に曲がった道路に家々が建ち並び、逆の町はずれも直角に曲がってクランクになっています(地図参照)。真っ直ぐに通さないこの道の作り方はまさに宿場町の作り方で、家々は変わりましたが、その道筋に昔の面影を残しています。

今回の農道整備にともない集落の人たちは、集落の周辺にあったお地蔵さんや水神といった石碑を集め農道沿いにまとめて建立しました。この中には「おせん地蔵」という茶屋の娘「おせん」に恋した佐竹のお殿様がその娘の死を悼み建立されたとされるお地蔵さんがあるはずなのですが、どれなのか判然としません。

明治以降の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響でしょうか頭の取れたお地蔵や顔の削られた碑が目立ちます。また、集落の反対側の辻には、のり面に埋もれるような形で見つけにくいのですが、観音様が建立されています。

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