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掲載日:2012年9月10日

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仙南の農道をゆく 農道 小村崎線 小村崎街道 弥陀の杉 産科医五十嵐ぶんすい

産科医

五十嵐文水(ぶんすい)

産科医五十嵐ぶんすいの写真

五十嵐ぶんすい(いがらしぶんすい)(1822~1891)は、幕末から明治にかけて活躍した産科医ですが、非常になぞの多い人物です。現在わかっている内容を記します。

彼は蔵王町平沢の武士の家に生まれました。父は平沢要害の城主高野家の家来で五十嵐英六郎英允(1785~1837)、母はそよ(1787~1837)と考えられています。父の役職は小姓だったらしく時々仙台の屋敷に向かう城主に従って行き来したと思われます。ぶんすいは、名を健蔵といい姉三人、弟一人の長男として生まれました。もっとも、すぐ上の姉と弟は幼齢で逝っているので姉二人との三人兄弟と見たほうがいいでしょう。彼が生まれた頃は、当時としては非常に長生きだった祖父母もいたことから7人家族だったようです。

しかし、本来のびのびと育つべき十歳から十五歳の時、彼に相次いで不幸が訪れます。それは家族の死でした。まず、祖父が十歳の時に死去、十四の時に祖母、そして十五には、両親を亡くします。この時二人の姉は年齢から見てすでに嫁いでいたと考えられ、まったくのひとりになってしまった健蔵は、親戚が面倒を見ることで家督を継いでいます。

当時は天保年間であり、全国各地で天候不順から飢饉が頻繁に起きていた時代でした。平沢地区も凶作で飢饉に陥っていたでしょうから、栄養不足か疫病の流行でなくなったのかもしれません。彼が十歳の時、隣の小村崎では人口が699人から352人に大幅に減ったという記録が残っています。健蔵にとって肉親の死はよほどショックだったようです。彼は気の病となり、それがなかなか治らず、家出を敢行しては見つかって連れ戻されたりしました。最終的には、四年後の十九歳の時、屋敷の返上を願い出て亘理に移り住むこととなります。長姉が亘理村蕨に嫁いでいましたからそれを頼ったのかも知れません。ここから十年間はまったく動向がつかめません。いったい彼は何をしていたのでしょうか。彼のぶんすいという名と明治以降の彼の行動を見ると仙台藩の藩医菅野淡水(1804~1868)に師事して医学の勉強をしていたと考えられますが、関係する記録が見つかっていないのでなんともいえません。

十年後の嘉永四年(1851)に彼が奉納したとされる木像(現在はだるま堂にある)には健蔵ではなく、「五十嵐ぶんすい」と彫られているので、この頃からぶんすいを名乗り再び平沢に住み始めたとも考えられます。結婚もこの頃のようで、柴田藩家老入間田求馬の次女きゑ(1835~1901)を妻として子供ももうけていますが死産または夭折(ようせつ)し子孫はいません。亘理出身の優秀な弟子五十嵐江水(旧姓山川)を養子としています。
(※夭折(ようせつ):年が若くして死ぬこと)

ぶんすいの名前が本格的に出てくるのはもっと後の幕末から明治にかけてのころです。すでに40歳を過ぎ医者として何を感じていたのでしょうか、明治2年(1869)にだるま講の根本であるお産の教則本「安産仙翁邦言教喩(おぼこなしだるまのなまりおつげ)を出版します。これは、妊婦の出産時の心得と心のケアを記したもので、すべて方言でルビが打たれています。詳しくはだるま講の項目をご覧ください。

そのほかにはこの教えをもとに産婆(今の助産婦)の育成に努めたり、宮城県最初の種痘医のひとりとして名が出てきたりします。言い伝えでは、伊達家に嫁いだ高野家の姫君の助産のため仙台での開業が許されたと伝わっています。その後平沢のだるま堂は、江水の縁者が守り現在に至っています。

彼は、明治24年(1891年)に仙台で亡くなっていますが、お墓は弥陀の杉の後ろにあるこんもりとした盛土といわれております。

五十嵐ぶんすいの墓といわれる塚と愚鈍庵と称した石碑の写真

五十嵐ぶんすいの墓といわれる塚と愚鈍庵と称した石碑

参考文献:

  • 『みちのく産婦人科小史』 ,第十三回日母大会実行委員会(1986)
  • 「安産祈願と医療-宮城県蔵王町安産仙翁の事例ー」,『東北民俗』第29号東北民俗の会,合原香須美(1995)
  • 『仙台人名大辞典』,菊田定郷(1933)
  • 『蔵王町史』,蔵王町史編纂委員会(1993,1994)
  • 「百年前に流布されていた民間産科指導書 安産仙翁邦言教喩」
    別冊 五十嵐家の人々, 仙台医学史研究会,玉手英典,五十嵐章(1975)
  • 「五十嵐家に伝わる安産仙翁邦言教喩の版木について」,『宮城県医師会報』345,346号,玉手英典(1974)

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