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(1822~1891)は、明治2年(1869)にだるま講の根本であるお産の教則本「安産仙翁邦言教喩(おぼこなしだるまのなまりおつげ)」を出版します。これは、妊婦の出産時の心得と心のケアを記したもので、すべて方言で書かれています。これを地域に古くから広まっている「伊勢講」「古峯講」といった信仰的な講を合体させ、年に3月、6月、8月にお参りするといった形で信仰者を集め、わかりやすく出産時の心得を説いて教則本を渡していたようです。
当時はまだ自宅で産婆さんが付き添うか自力で出産するのがほとんどで、まさに命をかけて出産することも多く、このような教則本は本当に役立ったものと思われます。特筆すべきは当時の医術が織り込まれているだけでなく、「四五十年に一回来る飢饉の準備をするより、出産の心得を覚え多くの子供を無事に生ますことの方が大切だ。」と人間としての道を説いていることです。思春期から青年期、自然災害や飢饉、幕末の動乱といった時代を過ごして来た彼だからこそ言い切れることなのかもしれません。
また、製作者はの妻、母、祖母、近隣の女性として出版しており、相談に来た女性たちを安心させる効果を狙ったものと考えられます。
このスタイルは非常にうまく機能し、周辺だけでなく、亘理、角田、白石、仙台まで広がったようです。明治14年にお堂を弥陀の杉の下に建ててからは、さらに集まったようで、各地にだるま講ができ、来ることができない妊婦の代わりとして「代参」が盛んでした。特に3月15日の春のお祭りは、大盛況だったようで、だるま堂から新町まで出店が並びサーカスのような見世物小屋まで出たそうです。その後、病院で子供を産むことが多くなっていったため、だんだんと廃れ、現在は春4月の一回だけとなりました。それでもお参りに来る人々もまだ多く、代参が続いている地方もあります。
参拝者に渡されるお札
祭りの様子を見守る弥陀の杉
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