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平沢地区を語る時、高野家をさけるわけにはいきません。戦国時代以降刈田郡が伊達領になります。関が原の戦い、仙台築城とその後二百年以上続く江戸時代の多くを治めたのが高野家です。仙台藩は、家臣に対して城下町に屋敷を与える一方、扶持米は米穀で渡さず、知行地を与えるという制度を採ったため、実際に仙台藩家臣が入りその地を治めました。
平沢は要害といわれる居城(勝岡城。平沢要害跡参照。)に高野家第十五代光兼が慶長年間末(1610年頃)に入城したと言われています。光兼は、伊達政宗に仕え丸森を治めていた第十四代親兼が没した後、仙台藩の南を守るにはあまりにも幼いということから平沢に移されたと伝わっています。高野家の仙台の屋敷は亀岡にあったとされています。この後、可兼(十六代)、俊兼、武兼、倫兼(遺訓碑参照。)、博兼、知哲、求知、知親と九代続いて明治維新を迎えています。特に武兼から倫兼の代は、八十六年間、詳細に日記をつけていたことからこの当時の事象や生活を知る上では大変興味深い。現在「高野家記録」として大切に保管されています。
蔵王町史より平沢要害屋敷図
仙台藩では、家臣は、御一門11家(伊達家の親族、分家、重臣)、御一家17家(一門に次ぐ家柄)、準御一家8家(一門に次ぐ家柄でかつて敵対していた家柄)、御太刀上【御盃頂戴】9家(正月に太刀を献上し盃を賜る家柄)、一族22家(早い時期から伊達家に仕えた家柄)、宿老3家(代々家老を務める家柄)、着座38家(正月に登城し、太刀、馬代目録を献上し、列を持って座に着き杯を賜る家柄)に分かれる。高野家はこの着座に位置し、格式の高い家柄として1,200石を賜っています。この伊達家直属の家臣の家来たちは、陪臣(ばいしん)と言われ、平沢出身の産科医五十嵐(弥陀の杉参照)の家系もこの陪臣に当たります。
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