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現地説明会資料|2001仙台市中野高柳遺跡現地説明会資料

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年9月10日更新

仙台市中野高柳遺跡

平成13年7月7日(土曜日)午後1時から  宮城県教育委員会

表紙

うら表紙

【調査要項】

遺跡名:中野高柳遺跡(なかのたかやなぎいせき)
所在地:仙台市宮城野区中野字高柳
調査原因:仙台港背後地土地区画整理事業
調査主体:宮城県教育委員会
担当:宮城県教育庁文化財保護課
期間:平成13年4月9日~11月30日(予定)
面積:約7,600平方メートル

1 はじめに

第1図遺跡の位置と周辺の遺跡

中野高柳遺跡は仙台市宮城野区中野字高柳にあります。南西800mのところを七北田川が流れ、東は4kmで海岸線にいたります。遺跡は、多賀城市新田から七北田川に平行して南南東にのびる標高3~4mの自然堤防上に立地しています。範囲は最も広い部分で測ると、南北400m、東西150mほどあり、南北に細長く、面積は約5万平方メートルになります。
本遺跡は仙台港背後地土地区画整理事業の対象地に含まれており、仙台市教育委員会(平成7~9・11・12年度)と宮城県教育委員会(平成6・7・12年度)によって発掘調査が行われています。今年の調査面積は約7,600平方メートルあり、これまでの調査地を合わせると遺跡全体の約1/4を発掘調査したことになります。その結果、鎌倉・室町時代の武士階級の屋敷跡や平安時代の畑跡が発見され、当時の人々が使った焼物、木製の食器、金属製や石製の道具などが出土しており、これまでよくわからなかった遺跡周辺の様子がしだいに明らかになってきています。今回は鎌倉・室町時代(=中世)の武士階級の屋敷跡を中心に説明します。

2 中世の遺跡周辺の様子

現在の仙台市岩切・高砂から多賀城市・利府町にかけての一帯は、鎌倉・南北朝時代には八幡荘・南宮荘・田子荘という荘園と高用名と呼ばれた公領に分かれていました。八幡荘は、現在の宮城野区蒲生・中野から多賀城市八幡にかけての地域にあったと考えられており、高柳遺跡はこの中に含まれます。古代・中世の七北田川は、多賀城市新田の南で東に折れ、七ヶ浜町湊浜で海に注いでいたとみられ、その南側が八幡荘と推定されています。この地を治めていたのは、鎌倉時代が平姓陸奥介氏、南北朝時代以降は平姓八幡介(のちに八幡氏と称す)です。戦国時代に入ると、八幡氏は岩切城を居城(のち利府城に移る)とした留守氏の家臣となり、八幡荘は留守氏の領地の一部となりました。
発掘調査で明らかになった中野周辺の中世遺跡としては、仙台市岩切城跡、東光寺遺跡、今市遺跡、鴻ノ巣遺跡や洞ノロ遺跡、多賀城市新田遺跡、山王遺跡などがあげられます。このうち鴻ノ巣・洞ノ口・新田・山王遺跡では堀で方形に区画された屋敷跡が見っかっています。内部には掘立柱建物や塀、井戸などがありました。これらは武士階級(留守氏の家臣)や有力者の屋敷と考えられます。屋敷の中には規模が大きく、建物や井戸が立派で茶の湯の道具や高級な焼物が見つかるところがあります。こうした屋敷の主人は、かなり裕福で階層も高かったとみられます。とくに洞ノロ・鴻ノ巣・今市・新田遺跡では、鎌倉時代から南北朝時代にかけての屋敷の跡が数多く発見されており、町並みが形成されていたと考えられます。このため仙台市岩切から多賀城市新田にかけての地域は、文献にみられる
多賀国府とみる見方が強まっています。多賀国府には河原宿五日市場、冠屋市場という市場があったことがわかっており、大層なにぎわいだったと想像されます。
中野高柳遺跡から発見された中世の遺構は、八幡荘を治めた武士階級(平姓陸奥介氏、八幡氏)にかかわる屋敷跡とみられます。出土した遺物の中には、香や茶の湯の道具のほか中国から輸入した高級な焼物があり、屋敷で暮らした人々の生活をある程度知ることができます。なお、遺跡内からは板碑と呼ばれる石製の供養塔が2基見つかっています。当時の人が死者の供養のため、あるいは自身が死んだのち極楽浄土へいけるよう願いを込めて立てたものなのでしょう。 

遺構写真

3 発見した遺構 

第2図発見した主な遺構

第3図屋敷の変遷

生活面が3枚発見され、一番上の生活面は鎌倉時代以降に形成されたものです。この面から鎌倉・室町時代の武士階級の屋敷跡が見つかりました。屋敷跡はいずれも幅3mほどの方形の堀で囲まれ、1期から3B期までの変遷が確かめられました。以下、順に説明します。
1期:区画A(東西55から60m、南北51m以上)+南北区画溝
2期:区画B(東西50m+張出部?)
南北51m以上の規模を持ち、仙台市教委1次調査のSD1を南辺とすると、南北約81mとなります。区画中央から南側に建物群が分布し、井戸の多くは建物群の縁辺に作られています。
3A期:二つの区画からなります。
区画C(東西25~29m、南北40m)
南辺中央に土橋、門があります。区画中央には主屋、その南には広場、広場の東西には副屋が配されています。主屋北側にも大型の建物が作られています。
区画D(東西34m、南北34m)
南辺中央と北辺西側に土橋があります。区画中央に主屋、その南は広場となり、広場西に副屋があります。井戸は広場や主屋西側に作られています。主屋北側は空地となっており、畑として利用された可能性があります。
3B期:三つの区画からなります。
区画C(東西25~29m、南北40~45m)
南辺中央に土橋、門があり、東辺の堀が区画E北辺の堀と接続しています。区画中央に主屋、その南は広場、広場の東西に副屋が配されています。主屋北側には雑舎と空地があり、空地は畑として利用された可能性があります。
区画D(東西34m、南北34m)
南辺中央に土橋があります。区画中央に主屋、その南に広場があり、広場の西に副屋が配されています。主屋北側には空地があり、畑として利用された可能性があります。
区画E(東西16m、南北35m)
東西幅は区画Dのほぼ半分です。南半分に雑舎とみられる小型の建物が検出されました。北半分は空地となっており、畑の可能性があります。
このほか、3期に属する遺構として、区画Dの墓跡があります。特に区画Dの北東部で見つかった墓跡からは、成人骨とともに天目茶碗や香敷などの副葬品が出土(仙台市教委第3次調査)しています。これらの遺物の年代から3期は16世紀代に属するものと考えられます。1・H期はそれより古い時期です。
中野高柳遺跡では、こうした中世の生活面の下から、ふたつの生活面が見つかっています。灰白色火山灰(十和田a火山灰=10世紀)の上下から、畑跡や水田跡などが発見されています。

4 出土遺物

出土遺物

中国からもたらされた青磁や白磁、国内産の中世陶器、素焼きの土器のかわらけ、茶臼や粉挽き臼などの石臼、漆器、魚をとるための篁(うけ・どう)ほかが出土しています。なお昨年度の宮城県教委の調査では、1期堀から「施主(せしゅ)」と記された木簡も見つかっています。
5 まとめ
(1)中野高柳遺跡では、3枚の生活面が発見され、』番上の生活面は鎌倉時代以降に形成されたもので、鎌倉・室町時代の武士階級の屋敷跡が見つかりました。
(2)屋敷跡はいずれも幅3メートルほどの方形の堀をめぐらせたもので、1期から3B期までの変遷を確かめることができました。このうち、3期は墓跡からみつかつた出土遺物の年代から、16世紀代に属するものと考えられます。1・H期はそれ以前の年代に位置付けられます。
(3)主な出土遺物に、中国からもたらされた青磁・白磁、国内産の中世陶器、石臼、漆器、篁(うけ、どう)などがあります。

武士の屋敷 本文ここまでです