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現地説明会資料|2001田尻町新田柵跡推定地現地説明会資料

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年9月10日更新

田尻町新田柵跡推定地

平成13年8月11日(土曜日)午前10時00分~  田尻町教育委員会

調査要項

遺跡名 :新田柵跡推定地
所在地 :宮城県遠田郡田尻町大嶺・八幡地区
調査主体:田尻町教育委員会
調査協力:宮城県教育委員会
調査期間:平成13年7月2日~8月24日(予定)
調査面積:A区約500平方メートル
B区約40平方メートル

1 はじめに

新田柵は、奈良時代に律令政府が陸奥国の大崎地方における支配の拡大をめざして設置した城柵の一つで、『続日本紀』天平9年条(737年)にその名が記されています。
田尻町北西部の大嶺・八幡地区を中心とする小高い丘の上は、奈良・平安時代の土器や瓦が多く出土することや、土手状の高まりがあることから、新田柵跡の推定地として注目されてきました。

遺跡の位置・調査区の位置

2 調査経過

大嶺・八幡地区の調査は平成2年度に始まり、その結果、土手状の高まりが築地という土塀の跡であることが明らかになっています。築地跡は、大嶺八幡神社の東側の低地を囲むようにめぐっており、その規槙は東西約1.5km、南北約1、7kmに及ぶ大規模なもので、城柵の外郭と考えられています。平成7・8年度の調査では、築地と北門と考えられる柱穴、築地の内側には奈良時代頃の建物跡、竪穴住居跡が見つかりました。平成9年度以降、町道薬師西田線の改良工事に伴い毎年継続して調査が行なわれてきました。平成9年度には城柵の南西部を区画する南北方向の材木列、平成11年度には奈良時代の外郭西門跡を2箇所で発見し、西門1から西門2へと建てかえられ(第4図参照)、各2時期計4時期の変遷があった事が明らかになりました。又、西門1に接続する築地の痕跡等も確認しています。平成11年度調査の際、漆紙文書が出土しており、解読した結果、戸籍のような帳簿の断片であることがわかりました。使われた語句に天平宝字元年(757)に施行された養老律令の用語「黄」(3才以下の子供のこと)があること、漆紙文書が付着した士器が8世紀代のものであることから、8世紀後半頃の文書とみられています。
このような調査成果をふまえて、大嶺・八幡地区に新田柵跡があることはほぼ確実視されるようになってきました。しかし、外郭の範囲や、城柵の中枢となる政庁をはじめ、主要な建物のあり方もまだ明らかになっていません。
今回の調査は、5ヵ年計画で行なっている「新田柵跡推定地」範囲確認調査の3年目にあたります。城柵内部解明のため、平成9年度に発見した材木列から北に約100mの地点を発掘しました。西門から東に約300mの地点のA区では、八脚門跡、掘立柱建物跡、竪穴住居跡、溝跡、土墳等を発見しました(空中写真)
その他町道改良工事に伴うB区の調査では、平成10年度に発見された桁行6間、梁行3間の大型建物跡延長部分の柱穴と、その東側に柱筋をそろえた同規模と思われる掘立柱建物跡等を発見しました。
※築地:築地とは粘土質の黒土や赤土を交互に積み上げて突き固めた土塀で、その上に屋根をかけたもののことです。
※漆紙文書:文書として一度使った紙を、漆の乾燥をふせぐために漆の入った容器の蓋紙として再利用したものです。紙は普通、士の中では腐ってしまいますが、漆が付着すると、その保護作用で士の中でも腐らずに残ることがあり、当時の文書が現代まで保存されてきたわけです。紙が貴重だった奈良・平安時代、蓋紙には役所で不要になった文書が使われていました。こうした文書の解読は、漆が付着しているので肉眼では困難ですが、赤外線テレビカメラを使うと書かれた文字を読み取ることができます。

3 発見した遺構と遺物

発見した遺構(遺構写真)
A・B区ともに発見した遺構のうち、調査区東半部で確認された主要なものについて説明します。(第3・4図参照)

A区(第3図):八脚門跡1基、掘立柱建物跡6棟、竪穴住居跡6軒、炉跡2基、整地跡、溝跡、土壙等を発見しました。

【八脚門跡】

南北約4.Om、東西約7.2mの南向きの八脚門跡で、竪穴住居1より古く、竪穴住居2より新しいものです。柱の間隔は南北が2.Om等間隔、東西が西から2.1m、3.0m、2.1mで、人が通る中央部分の間隔は広くなっていました。構造は地面に柱穴を掘り、柱を立てた掘立柱式で、平成11年度の調査で発見された2箇所の外郭西門跡(西門1・2)がこれと同じ構造の門です。
柱穴の平面形は、長方形や楕円形をしていますが、溝や竪穴住居1に壊されているため不整形のものもあります。南西隅柱は竪穴住居1に全て壊されていて発見されませんでした。また、これに取り付く築地や材木塀等は確認できず、現在のところ平成9年度に確認された材木列がこの門とどのような関係にあるのかは不明です。年代は、新旧関係が認められる竪穴住居1・2とも8世紀代であるため、門の年代も8世紀代のものと考えられます。
※八脚門:八脚門の柱は12本あり、中央の4本は棟を支える本柱で、真中の2本の間に扉がつきます。前後の各4本の柱は、棟からのびた屋根につく控え柱です。このように前後に各4本、合計8本の控え柱をもつ門を八脚門といいます。

【掘立柱建物跡1】

総長が12mの桁行5間、梁行2間以上の東西棟掘立柱建物跡です。柱間は桁行(建物の長軸方向)が西から2.8m、2.3m、2.2m、2.3m、2.6m、梁行(建物の短軸方向)が南から約3mです。掘立柱建物跡2より古いものです。

【掘立柱建物跡2】

総長96mの桁行4間、梁行2間以上の南に庇がつく東西棟掘立柱建物跡です。柱間は桁行が西から2.6m、2.3m、2.1m、2.8m、梁行が南から約2mです。掘立柱建物跡1より新しいものです。

【掘立柱建物跡3】

総長約9mの掘立柱建物跡です。柱間は全て約3mです。竪穴住居1より新しく、竪穴住居2より古いものです。柱穴4個を発見し、その中の北西隅柱が竪穴住居1の貼床の下で確認できました。これらは掘立柱建物跡の北側柱列にあたり、南に展開すると考えられます。年代は、新旧関係が認められる竪穴住居1・2とも8世紀代のものであることから8世紀代と考えられます。

【竪穴住居跡1】

八脚門の南西隅柱を壊している竪穴住居です。八脚門跡、竪穴住居2、掘立柱建物跡3と重複しており、これらより新しいものです。規模は北辺が4.5m、東辺が2.5m以上です。出士遺物から8世紀代のものと考えられます。

【竪穴住居跡2】

八脚門の南側柱に壊されている竪穴住居です。八脚門跡、竪穴住居1、掘立柱建物跡3より古いものです。規模は北辺が3m、東辺が3.5m以上です。出土遺物から8世紀代のものと考えられます。

【炉跡】

炉が2基並ぶようにつくられており、焚口部分にはそれぞれ切石が対に立てられているのが特徴的です。焚口部分と思われる南側には、炭化物が多量に広がっています。鍛治に関する炉跡ではないかと思われます。

B区(第4図):掘立柱建物跡2棟、竪穴住居跡1軒、溝跡3条、土墳等を発見しました。

【掘立柱建物跡4】

平成10年度に外郭西門跡の南東約15m地点で発見した東西棟掘立柱建物跡です。今回の調査では、東側柱列1個、北側柱列2個の計3個の柱穴を発見し、桁行6間、梁行3間の掘立柱建物跡である事がわかりました。年代は、8世紀前半代の竪穴住居より新しい事が分かっています。また、西門1と柱の方向がそろうことから、西門1と同時期のものと思われます。

【掘立柱建物跡5】

掘立柱建物跡4の東側に柱筋をそろえて建つ東西棟掘立柱建物跡です。西側柱列1個・南側柱列3個の柱穴を発見しています。おそらく掘立柱建物跡4と同規模の建物ではないかと考えられます。
発見した遺物
A・B区とも奈良・平安時代の遺物である土師器、須恵器、瓦等が少量出土しているのみです。.

4 まとめ

1 今回の調査では、外郭西門1から東に約300mの地点に南向きの門を発見しました。
2 門の構造は多賀城跡や新田柵跡外郭西門(西門1・2)と同じ「八脚門」で、格式の高いものです。年代は奈良時代のものと考えられます。
3 今回発見された八脚門は遺跡全体の南西部を区画していると思われる材木列の延長線上で確認されたもので、新田柵跡推定地南西部を区画した施設にとりつく南門の可能性があると思われます。
4 外郭西門跡南東約15mの地点で、平成10年度に発見された西門と柱方向をそろえる掘立柱建物跡4が、桁行6問梁行3間の東西棟建物跡であることを確認しました。また、東側に掘立柱建物跡4に柱筋を合わせて同規模と思われる掘立柱建物跡5が並んでいることを発見しました。さらに、平成11年度にB区北側に大規模な建物跡が見っかっていることから、西門1をはさんで北と南に大型の掘立柱建物跡が並び建っことが明らかになりました。 本文ここまでです