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現地説明会資料|2001利府町大貝窯跡現地説明会資料

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年9月10日更新

利府町大貝窯跡2次調査

【調査要項】

遺 跡 名:大貝窯跡(宮城県遺跡登録番号22069)
調 査 名:大貝窯跡第2次発掘調査
所 在 地:宮城県宮城郡利府町赤沼字大貝
調査原因:都市計画道路建設工事・宅地造成工事
調査期間:平成13年年3月12日~4月27日
調査面積:約650平方メートル
調査主体:利府町教育委員会
調査指導:宮城県教育庁文化財保護課

【位置と立地】

大貝窯跡は利府町役場の北東約5km、三陸自動車道松島海岸インターの南西約200mに位置し、北東から南西にのびる沢沿いの丘陵に広がっています。標高はおよそ70mです。遺跡の周辺には、多賀城皿期・IV期の窯跡が確認された春日大沢窯跡・硯沢窯跡などがあり、大貝窯跡はこれらの窯跡とともに古代の窯跡群、春日窯跡群を形成しています。また、半径10km圏内には南西に利府城・岩切城~東に瑞巌寺、南東に塩竃神社などがあります。(第1図 遺跡の位置)

1.はじめに

 都市計画道路建設工事及び宅地造成工事にともない昨年度から発掘調査を行っています。昨年度の調査においては、古代の嶺慧慕・髭蕪跡、蔑窯跡、中世の炭窯跡、璽笑崔蒼跡等を確認しました。このことにより、大貝窯跡は古代多賀城に瓦や須恵器を供給する生産工場として重要な役割を果たし、さらに多賀城期以降も継続して生産活動を行っていたことを知る手掛かりを得ることができました。
 第2次調査では、第1次調査区の南西側の調査を進めているところです。

2.調査の概要

発見した遺構
第1次調査区から南に100m程離れたところで製鉄に関連する遺構を確認しました。山の斜面を切り出して作業場となる平場を造成しています。作業場では製鉄炉跡、溝跡、炭置場跡とみられる遺構、床面が強く熱を受けているピット状の小鍛冶跡、柱穴跡を検出しました。(第2・3図、写真1)
製鉄遺構はおもに、
  (1) 鉄を製錬するための製鉄炉
  (2) 鉄滓(製鉄や鍛冶の際に出る鉄屑)を廃棄する廃滓場
  (3) 選別などを行う作業場
  (4) 精錬(製練した鉄をさらに純度の高い鉄にする過程)を行う精錬炉
  (5) 鍛造・鋳造(製品を作る作業)を行う小鍛冶炉
に大別されます。当遺跡では(4)番に関しては確認されませんでした。

(1)製鉄炉跡

炉の形態には、「竪型(たてがた)炉」と「箱形(はこがた)炉」とがあります。
   竪型炉・・・段差のある地山を半円形に掘り、枯土を積み上げた円筒形の製鉄炉
            送風方向と廃滓方向か一方向
   箱型炉・・・平坦面に枯土で構築した方形の製鉄炉
            送風方向と廃滓方向が直交方向
確認した炉は「箱型炉」でした。これまでに宮城県内で調査されている製鉄炉の形態は竪型炉のみで、箱型炉に関してはまだ調査例がありませんでした。今回の調査では、宮城県内にも箱型炉が存在していたことを示す新たな発見となりました。(第3図 製鉄炉跡)
確認された構造は基礎構造のみで、炉本体は残っておらず確認できませんでしたが、堆積土の状況から、炉の本体は約90×90cmの方形であったと推定されます。
炉の基礎構造は、東西方向を主軸とする約200×220cmの隅丸長方形寸深さは約60cmです。木炭と砂が敷き詰められており、水はけを良くするための排水施設になっています。
 また、炉の東側(上方向)に、炉内に風を送り込んで火力を調整するための踏ふいごを確認しました。踏ふいごは左右一対になっており、全長約3m、幅約1.3m、中心を軸として両端に約10度の傾斜がついていました。操業時は、板を用いて左右を交互に踏むことによって風を送り出す施設であったと考えられます。ちょうど遊具のシーソーの仕組みに似ています。
送風施設のさらに東側には直径約1m、深さ約30cmの土壌を伴っていましたが、用途は不明です。

(2)廃滓場

廃滓場の範囲は、東西(縦軸)約13m、南北(横軸)約15m、高さは最も高いところで3m60cmで、製鉄炉西側斜面の傾斜に沿って木炭・鉄滓・整地土の層を形成していました。堆積層の状況から、大きく分けて4回の操業が考えられます。また、場所によって砂鉄、木炭、羽口・炉壁の包含層が、それぞれ1カ所に集中して堆積していることから、廃棄物を分別して捨てていたのではないかと考えられます。出土した鉄滓の量は約40tに及んでいます。
また、廃滓場の末端付近では、堆積層の下から長さ約70~140cm、幅約50cm、深さ約30cmの区画溝を検出しました。(第2図 遺構配置図)

(3)作業場

作業場は・山の斜面を切り出して平場を作りだし、さらにその土で斜面を埋め立てて、平場を拡張している状況を確認しました。範囲は、東西(縦軸)約6m、南北(横軸)約9mです。山側斜面沿いに排水用と考えられる溝跡を検出しました。
また、製鉄炉を囲う柱穴跡を確認したことから、掘立柱で簡単な屋根を設けた施設であったと考えられます。東側では1回柱の立て替えが行われた痕跡がありました。
遺構の底面や壁は、鉄分により燈色に変色していました。

(4)小鍛治炉跡

小鍛治炉は、ごく浅くて小さい楕円形の穴に粘土が貼り付けられたピット状の遺構です。1カ所に数基づつまとまっており、炉の南側と北側で1カ所ずつ確認できました。底面とその周辺がやや強めの熱を受けており、椀型鍛治滓、微量ながら鍛造剥片?(鉄を鍛錬する際に生じる飛び散った酸化被膜のかけら〉が検出されたことから、小鍛治炉跡であると考えられます。
出土した遺物

  • 羽口・炉壁・・・・鉄滓とともに廃滓場に廃棄されていました。炉壁にはスサ入り粘土が用いられていました。スサは亀裂を防ぐためにつなぎとして混ぜるワラなどの繊維状のものをいいます。羽口は本来、炉内に挿入して用いられる送風管のため、製鉄炉からの出土が期待されましたが、炉内からの出土はありませんでした。羽口の大きさは、内径約4.5~6.5cm、外径約10~14cmです。
  • 鉄滓・・・・出土量約40t。
  • 角釘・かすがい・・・・作業場の埋土中より出土。上屋を構築する際に使用されてたものと考えられます。
  • 古銭(至大通費)・・・・送風施設底面に貼り付けられた粘土中より一枚出土。初鋳1310年の元銭。(写真2資料1 元の銭貨)

3.文献資料より見た赤沼

 赤沼は、利府町の北東端に位置します。北は宮城郡松島町・黒川郡大郷町、南は塩竃市に接し、東は松島湾に面しています。「赤沼」の地名の由来は、付近の土が赤味を帯びており、その影響で中央部にある大沼が赤味を帯び赤沼と呼ぱれるようになったことからとされています。赤沼とその周辺に関する史料をいくつか紹介します。
[中世]南北朝~室町時代
─高木保の中の一村「赤沼郷」。相馬氏の本領の一つ。

・赤沼の地名の初見は、永仁2(1294)年『御配分系図』で〈相馬胤氏の項〉に「赤沼六町」、〈胤顕の項〉に「赤沼四町」とありますがこの地を指すかどうかは定かではありません。◎『相馬文書』応安5(1372)年12月2日〈相馬讃岐次郎宛斯波詮持カ施行状〉(史料1)で、「高城保内赤沼郷」を相馬讃岐次郎に安堵する旨の奉書が発せられ、同12月11日〈沙弥清光遵行状〉(史料2)では、それを受けて赤沼郷を讃岐次郎に打ち渡す内容が記されています。

・聖護院門跡准后道興の紀行文である『廻国雑記』文明18(1486)年6月(史料3)には、宮城野、多賀城を経て石巻街道に入り、松島へ向かったことが記されています。
 ※「もろおか」は現在の利府町、「西行がへり」は現在の長老坂を指します。
赤沼は松島に通じる山越えの街道になっていたことがわかります。
[近世]江戸時代
─高崎代官所所管の「宮城郡高城郷」の一つ。仙台藩の所領。

・『残間家文書』寛永6(1629)年霜月25日〈成田村山守藤右衛門・清右衛門連名書状〉(史料4)に、伊達氏の支配になり、春秋5駄(1駄ほぼ等しい135kg)ずつ鉄を献上していたが、「松島塩竃の御営」で土地がわりし、栗の木を切り尽くしてしまったため今は製鉄をしなくなったという内容が記されています。『松島塩竃の御営」が瑞巌寺の造営を意味するとすれぱ慶長年間のことであり、このあたりの製鉄は慶長年間をもって終了したことが伺えます。
残間家は、近世初頭、初代残間藤右衛門が、新領主となった伊達政宗に数百町歩の山林を献上し、黒川郡大郷町東成田俗称板谷の御山守を仰せつかった百姓家です。伊達政宗が玉造郡岩出山に居城を移したのが1591年であり、伊達氏支配地となるのはそれ以降のことです。
板谷は、惣の関から郡境にある休松にかけての山一帯を指します。当遺跡が板谷の範囲に該当するという確かな証拠にはなりませんが、もしそうであるとすれぱ、当遺跡は仙台藩の製鉄が北方へと進出していく直前まで操業していた製鉄炉として位置づけられる可能性があります。
以上の史料より、当遺跡の操業時の支配者は相馬氏、伊達氏のどちらかが考えられます。
      ・1370年頃~(南北朝~室町時代)→相馬氏の支配下
      ・1590年以降~(近世初頭)→伊達氏の支配下

・「相馬文書」応安五年十二月二日《相馬讃岐次郎宛斯波詮持施行状》
  117斯波詮持(ヵ)奉書
    陸奥國高城保内赤沼郷事、為本領之間、所□付也、如元知行違状、依仰執達如件、
        慶安五年十二月二日
                             左衛門佐(花押)
         柑馬讃岐次郎殿
                                                        (史料1)

・「相馬文書」応安五年十二月十一日《沙弥清光遵行状》
  118沙彌清光打渡状
    高城保内赤沼、任御施行之旨、留守新左衛門尉相共葵莅彼所、下地於相馬讃岐次郎代渡
    付畢、仍渡之状如件、
        鷹安五年十二月十一日           沙彌清光(花押)
                                                        (史料2)

・「廻国雑記」文明十八年六月
木の下に雨やとりせむ宮城野やみかさと申す人しなけれは
おくのほそ道。松本。もろをか。あかぬま。西行
がへりなどいふ所々をうち過て松嶋にいたり
ぬ。浦々嶋々の風景ことばも及がたし。かねて
聞侍しは。ものの数にても侍らず。。みなみな帰
かね侍りければ。
                                                        (史料3)

・「残間家文書」寛永六年霜月二十五日《成田村山守藤右衛門・清右衛門連名書状》
        (前文欠)
  5(村境につき覚え書き)
  (前略)
   一葛西之代之後御代に罷成申■へハ、くろかねふき申■ヘハ、春秋
   に付而御山之御役に、くろかねを五たんつゝ、さしあげ申■へ共、
   松島しほかま御ゑいに付而、とちかわりにくりの木きりつくし申
   ■て、たゝいまはくろかねふき不申■事。
  (後略)
                       御山守藤右ユ門
      寛永六年
        霜月廿五日         同  清右工門
                                                        (史料5)

4. まとめ

(1) 宮城県内で初めて箱型炉を確認しました。
(2) 製鉄遺構に関しては、旧表土中に灰白色火山灰がまだらに混在していたことと、出土した古銭が完銭の"室笑  適讐"(初鋳1310年)であったため、少なくとも14世紀以降に操業していたことが明らかとなりました。
(3) 大貝窯跡は、多賀城関連の生産遺跡であると考えられてきましたが、前回、板碑を転用した炭窯跡く13世紀以  降)を確認したことに次いで、今回、製鉄炉(14世紀以降)を確認したことから、多賀城期以降も生産活動が行わ  れていたことを知ることができました。
(4) 諸史料より、この製鉄遺構は相馬氏支配下、伊達氏支配下のいずれかの時期に操業していたことが予想されま  す。いずれにせよ、当時の製鉄事情を知るための興味深い成果となったのではないかと思います。出土遺物の  化学分析により、さらに時期の絞り込みが可能となるかもしれません。
一ロメモ
元の銭貨
 蒙古第5代の世祖忽必烈(クビライ)が1260年に即位し、間もなく都城を北京に造営して大都と名づけ、1271年国号を新定して大元とした。元は南宋を減ぼし、高麗を臣服せしめたが、日本に再度侵入軍を派遣したのは失敗に終わった。元は1368年、明祖朱元璋に汝ぼされ'た。
 元朝の災幣は、中国伝統の銅践をごくわずかしか発行しなかったことで、それに代わって交鈔(紙幣)を発行し、さらに銀の使用が宋金代に比して拡大したなどの特徴がある。鋳銭は成宗時代に元貞通寶・大徳通寶、武宗時代に至大元寶(1310)・至大通寶(1310)や蒙古文宇の大元通寶(1310)、順帝の至正年間に至正通寶・至正之寶を鋳た。これ以外にも鋳践しているが、渡来践は至大通寶と至正通寶だけである。新安では蒙古文字の大元通寶(当十践)が検出されている。

大貝窯跡関係年表
西暦・和暦大貝窯跡に関連する出来事 日本の主な出来事
700   
710(和銅3) 平城京に都をうつす
724(神亀1)多賀城が国府と鎮守府を設置される 
780(宝亀11)伊治公些麻呂の乱 
 春日窯跡群で須恵器・瓦の生産が開始される 
794(延暦13) 平安京に都をうつす
1000   
1100   
1190(建久1)伊沢家景が陸奥国留守職に任命される(留守氏のはじまり) 
1192(建久3) 源頼朝、鎌倉幕府を開く
1200   
  元冠
 岩切丘陵部・雄島などに板碑が造立され始める 
1300   
1310(延慶3)元で至大通宝が初鋳される 
1336(建武3) 足利尊氏、室町幕府を開く
1351(観応2)岩切合戦で留守氏惨敗 
1372(応安5)「相馬文書」に赤沼の土地所有に関する文書あり 
1400   
1467(応仁1) 応仁の乱
1486(文明18)「廻国雑記」に松島へ抜ける山越え街道の途中に赤沼があったことを示す記載あり 
1500   
1570(元亀1)留守政景が岩切城から利府城に本拠を移す 
  豊臣秀吉、天下統一
1591(天正19〉伊達政宗が玉造郡岩出山に本拠を移される 
 留守政景が利府から大郷大谷に本拠を移される 
 大郷の残間家が板谷地区の山守に任命される 
1600   
 仙台藩の製鉄が北上地方で行われるようになる 
1601(慶長6)伊達政宗、仙台城築城を開始する 
1603(慶長8)伊達政宗、仙台城に本拠を移す 
1604(慶長9)伊達政宗、瑞巌寺を再建する徳川家康、江戸幕府を開く
 大沢9番窯跡で瓦が生産され瑞巌寺に供給される 
1606(慶長11) 慶長通費が鋳造され、永楽銭通用が停止される
1608(慶長13) 永楽銭通用停止の再令が出される
1629(寛永6)「残間家文書」に板谷地区の製鉄業停止についての記載あり 
  三代将軍徳川家光
  鎖国政策
1636(寛永13) 寛永通費が初鋳される
1700