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「登米はっと」の由来

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年9月10日更新

(パンフレット「登米はっと街道」より抜粋)

今からおよそ四百年も昔の藩政時代のこと,当地方は伊達藩でも有数の米どころでした。伊達藩では藩をあげて北上川水系の改修と湿地の新田開発に取り組み,江戸への産米輸送に力を注いでいました。当時,伊達藩では「買米制」という制度をつくり,お百姓さんが年貢を納めたあとの余った米をも藩が買い上げ江戸へ送っていたのです。このため米どころであってもお百姓さんは満足に米を食べることができませんでした。「百姓食物常々雑穀ヲ可用食之事」(米を食わず雑穀を食うべし)という「百姓法度」が出されるほどでした。こうして伊達藩の米は,江戸では「本石米」と呼ばれ,米相場の基準にもなるほどで,伊達六十二万石は,実質百万石と言われるほどの経済成長を遂げたのです。
 こうした中,米を満足に食べられなかったお百姓さんは,麦飯(二番米,三番米に大麦を混ぜたご飯)の他,畑で作った小麦を粉にし練って茹で上げ「はっと」として食べていました。当初,「はっと」は米の代用食でしたが,長年のお百姓さんの知恵で,より美味しい食べ物へと工夫されていったのです。こうして,美味しい「はっと」がお百姓さんの間で好んで食されるようになると,当地方を治めていた領主は,このままではお百姓さんが小麦づくりに精を出し過ぎて米づくりが疎かになるのではと心配し,この料理を食べることを禁止(法度)するようになり,それ以来「はっと」と呼ばれるようになったと言われています。
 このように「はっと」は,米どころが故に生まれたお百姓さんの知恵と工夫の小麦の食文化なのです。そして,その後の度重なる食糧難の時代においてもこの地の人々に命を与え,そして,その食文化は現代まで脈々と受け継がれています。