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おおさき古道ガイド・古川高城道・松山周辺

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年9月10日更新

3 日吉神社(大崎市松山次橋)

写真:日吉神社

 祭神は大山咋神です。山王権現とも呼ばれます。旧村社。この山は、南北朝末期(14世紀後半)大崎・石塔・畠山・吉良4奥州管領の勢力争いの頃の「長世保三十番神の戦」があった所と思われます。南斜面には、嘉暦2年(1327)など三基の鎌倉末期の供養碑があります。
(案内板)

4 上野館跡(大崎市松山千石)

写真:上野館跡

 近世仙台藩の上級武士茂庭氏の屋敷跡です。寛永8年(1631)茂庭周防良元の下屋敷として築かれ、慶安4年(1651)73才で隠居し、千石城三の丸から移りました。その後、子周防定元は明暦3年(1657)作事の完成を待って正式に居館として移住し、以後幕末までの約200年間この地が松山統治の中心となりました。
(案内板)

5 羽黒神社(大崎市松山千石)

写真:羽黒神社

 後三年の役(1083~1087)に際し、源義家の部将鎌倉権五郎景政が戦勝を祈願して勧請したといわれ、古くから松山郷の総鎮守でした。
 社殿前権五郎景政手植の大杉の碑があり、拝殿左側の絵馬は弘化4年(1847)茂庭升元が藩主名代として孝明天皇の即位式に参列し、大任を果たした御礼に奉納したもので、小野寺鳳谷の画です。
(案内板)

6 茂庭家霊屋(大崎市松山千石)

写真:茂庭家霊屋

 曹洞宗龍門山石雲寺境内にあり、松山領主茂庭氏三代(良元・定元・姓元)の墓の上にあり、堂前の献灯から宝永5年(1708)に完成したものと推定されます。建物は、方三間素木造茅葺き、室内はウグイス張りの床板敷になっており、奥壇上には、良直・綱元・良元・定元・升元と綱元妻・良元妻・定元妻の8体の彩色座像(約70cm)とその背後には、伊達・茂庭両家代々の位牌が安置されています。昭和61年5月31日宮城県指定有形文化財として指定されており、室内の開帳日は年2回(1月18日・8月16日)です。
(案内板)

7 桃源院(大崎市松山千石)

写真:桃源院

 創立は天文13年(1544)、開山は米沢松林寺三世の一華宗甫和尚、開基は鬼庭左月良直です。慶長8年(1603)茂庭良元が松山領主になると、同10年(1605)寺は千石村(大崎市松山)に移転しました。移転先では延命地蔵尊が祀られていたため、延命山桃源院と改称しました。その後、寛永8年(1631)上野館の築城の際にこの地に移転しました。本尊は、聖観世音菩薩です。
(町史)

8 御本丸公園(大崎市松山千石)

写真:御本丸公園

 御本丸公園は中世松山の中心的な城、千石城(松山城)跡です。
 文覚上人(遠藤盛遠)を祖とする遠藤盛継が応永8年(1401)鎌倉公方より志田・玉造・加美3郡の奉行に任じられ、志田郡に千石城を築き、以後約200年間、千石城は遠藤氏の居城でした。天正19年(1591)遠藤氏が松山から登米郡石森に移されると、石川昭光、古田重直が領主を歴任し、慶長8年(1603)には茂庭良元が領主となりました。
明暦3年(1657)茂庭定元が上野館を居館と定めた後は、上野館が松山統治の中心となり、千石城には留守居役を置くのみとなりました。

写真:コスモス園

【コスモス園】
 三の丸は明治100年を記念して整備され、現在はコスモス園となっています。 9月~10月頃にはコスモス祭りが開催されるなど地域住民をはじめ多くの方に親しまれています。

9 志呂庫神社(大崎市松山長尾)

写真:志呂庫神社

 天保2年(1831)邑主石川筑前守小八郎の勧請創社より同家守護神と仰ぎました。他県より参拝信仰あり、願いかけするといぼが取れるといいます。また、守護に白狐往時加護しているということから「白狐大明神」とも言われています。

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