義経ろまんの郷
奥州 -みやぎ- |
■金売橘(吉)次
奥州と京都を往復する金商人で、奥州藤原氏とも関係のあった金売橘次は、奥州藤原氏に後ろ盾となってもらうよう、義経に提案し、平泉行きの手引きをした。
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義経記 第一 六 「吉次が奥州物語の事」(抄)
御年十六にぞなり給ふ。其頃三條に大福長者あり、名をば吉次信高とぞ申しける。毎年奥州に下る金商人なりける。御前に畏まつて「藤原清衡と申す者、國の警固に止められて候ひけるが、亘理郡にありければ、亘理の清衡と申し候ひし、両国を手に握つて候ひし、十四道の弓取、五十万騎、秀衡が伺候の郎等十八萬騎持ちて候。是こそ源平の乱出で来たらば、御方人ともなりぬべき者にて候へ」と申しける。
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義経記 第一 七 「遮那王殿鞍馬出の事」(抄)
遮那王殿粟田口まで出で給ふ。正門坊もそれまで送り奉り、十禅師の御前にて、吉次を待ち給へば、吉次未だ夜深に京を出で、粟田口に出で来たる。我が身は京を尋常にぞ出で立ちける。吉次を招きて宣ひけるは、「白河の関をだにも越えば、秀衡が知行の所なれば、雨の降るやらん風の吹くやらんも知るまじきぞ」。
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■炭焼藤太と金田八幡宮(金成)

藤太は、金売橘次の父である。もともとは炭焼きを生業としていたが、京都の三条右大臣道高の娘おこやとの結婚をきっかけとして金商売を始めたといわれている。
平安時代の末に金成で炭焼きをしている藤太のもとへ、京都の三条右大臣道高の娘おこやがやってきて、清水寺の観音様のお告げで嫁になるためにきたという。藤太はおこやの申し出を受け入れ二人は仲むつまじく暮らしはじめた。
ある日おこやは、親から譲ってもらった砂金を紙につつんで藤太に渡し、姉歯の市に行って米や味噌を買って来るようにと頼んだ。ところが藤太は、途中の沼に雁や鴨が群れているのを見つけると、鴨を捕らえようと砂金の包みを投げつけた。首尾よく鴨を捕らえた藤太は上機嫌で帰宅しました。おこやは「投げつけてしまって沼に沈んだ砂金さえあれば、そのような鴨はいくらでも買える」と、金の値打ちを知らない藤太に言って聞かせた。 しかし藤太は慌てるようすもなく、「そんなものならいくらでもある」と、おこやを外に連れ出した。そこには炭焼き窯のまわりには、砂金が山のように積まれていた。 やがて金の価値を知った藤太は金売となった。 金田八幡宮は橘次が住んだ東館跡と伝えられており、金運之印や義経が東館を訪れた際に奉納したという仏像等が保存されている。また藤太夫妻の墓、藤太が埋めたとされている金鶏、藤太夫妻の面が残されている。
| 所在地 |
宮城県栗原市金成 |
| アクセス |
東北自動車道若柳金成IC |
| 駐車場 |
無 |
| ガイド |
無 |
| 問合せ先 |
栗原市金成総合支所産業建設課
栗原市金成沢辺字町沖200
0228-42-1114 |
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■栗原寺(栗駒)

義経が平泉を前にして一泊して身繕いを整えたと伝えられる。また、逃走の際も逗留したといわれている。
| 所在地 |
宮城県栗原市栗駒 |
| アクセス |
東北自動車道若柳金成ICから20分 JRくりこま高原駅から車で40分 |
| 駐車場 |
無 |
| ガイド |
無 |
| 問合せ先 |
無 |
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■宿屋敷跡(河南)
金売吉次が住んだと伝えられている。
当時はここまで宿場であったといわれ、金商人たちが京往復の際に宿泊した場所といわれている。
| 所在地 |
宮城県石巻市須江字山根 |
| アクセス |
三陸自動車道河南ICから車で5分 |
| 駐車場 |
無 |
| ガイド |
無 |
| 問合せ先 |
石巻市河南総合支所産業建設課
石巻市前谷地字黒沢前7
0225-72-2114 |
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■長者館(河南)
安永風土記に、金売吉次信高の仮の住居で、当時御給人、小嶋嘉右衛門様の御除屋敷と記されている。
| 所在地 |
宮城県石巻市須江字関ノ入 |
| アクセス |
三陸自動車道河南ICから車で5分 |
| 駐車場 |
無 |
| ガイド |
無 |
| 問合せ先 |
石巻市河南総合支所産業建設課
石巻市前谷地字黒沢前7
0225-72-2114 |
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伝説を素材としているため、史実と対立したり相互に矛盾することがあることをあらかじめご了承ください。 |